自我について、「本当はすごい私」(苫米地英人著、講談社)p.46〜から、新しい発見がありました。
・自我なんてもともとない。
・自我があるというよりどころは、「自我はある」という確信だけ。
・自分自身とは何かを定義しようとすると、『日本人で』、『英人という名前で』、『〜年生まれで』、『4人家族で』、『身長、体重は…』、『趣味は…』と、あらゆる情報を動員しても自分を特定できない。
・むしろ、自我を決める要素はすべて、「他者との関係」であって自分自身ではない。
・<すべての存在は、他者との関係性のなかで「これ」と認識・定義している情報状態をいう>から、すべての存在は、「ある」と言えば「ある」し、「ない」と言えば「ない」。
ここでおもしろいのは、最後の「公理」のような定義。
それと、「自我を決める要素はすべて、「他者との関係」」なんだということ。
「他者との関係性」→「自我」
つまり、「自我」は、自分の存在や位置を確かめる為に、自分から他者に向けて発せられた想念のベクトルで、他者に反射して自分に返ってくることを想定したもの、ということか。
とすると、「まごころ」は、自分から他者に向けられて発せられる想念のベクトルであり、反射して戻ってくることを想定しない、他者に(多くの場合)感謝をもって受容される(受容してほしいと思い込む)想念のことか。
そして、「他者関係性」という観点では、「自我」も「まごころ」も同じですね。
「自我」なんてもともとない。
そして、「まごころ」も、もともとないということになりますね。
苫米地先生の本は、どれも痛快です。