「生活の貧しさと心の貧しさ」(大塚久雄著、みすず書房)
この本は、大塚久雄先生の論文集にいくつかの対談集(相手は、矢内原忠雄先生、湯川秀樹先生、森有正先生と豪華な顔ぶれ)、合計20篇で出来上がっています。
やっと、最後の対談を残し、19編を読了しました。
軽いビジネス書を読むのとは違って、文章に深みがあり、情報量も多いので、速読はできませんでした。(速読は、2回目以降にしたいと思っています)
本当に、みすず書房はしぶい、良書を提供し続けてくれています。
好みもあると思うのですが、良書ばかり。
今回は、すぐ購入できる古書があったので、古書で極めて安価に購入してしまいました。
もともと、定価で¥2,940なのですが、それでももとは取れる本です。
みすず書房の本ならば、事前にチェックして、よほど嫌いな作家・学者の本でもない限り、新品、定価で買っても、まず後悔はありません。
さて、本書。
本書で、初めて大塚先生が、かの内村鑑三先生の流れを汲む、無教会派基督者であったと知りました。この本では、聖書の言葉が引用されている論文も出ています。
もっとも、無教会派の方ですから、抹香臭くなく、宗教勧誘自画自賛的なことは一切書かれていませんから、宗教アレルギーのある方でも普通に読めるはずです。
事実を大切にする、というのは、内村鑑三先生も言われていますね。
本書にも引用されていますが、「事実の子たれよ。理論の奴隷となる勿れ。事実は悉く之を信ぜよ。」と言われたそうです。
最初の論文が、「真理への畏敬」という表題です。
「真理」とは「事実」と置き換えてもよいように思います。
p.5では、
「真理への畏敬」とは、「事実を事実として素直に承認する心構えなのです。…謙虚に事実を事実として承認し、…勇敢に正しいことを正しいとして主張する、こうした主体的真実なのです。」と書かれています。
大塚先生は、互いが自己の主張を強弁する、なんとか討論会を批判されます。
「あれは、話し合いではなく、言いくるめです。やはり、事実を事実として素直に承認する態度に欠けている。」(p.8)
「本当に暴力がいけないというならば、同時に、この言いくるめの精神をも徹底的に憎み、否定してしまうのでなければ、真の暴力否定にはなりえない、とわたしは考えるのであります。」(p.10)
ここまで読んだだけで、とてもかっこいい(卑俗な言葉でスミマセン)。
わたしたち、法律家と言われる人間は心しなければなりません。
わたしたちの存在は、暴力の否定を前提にしています。
力の強いもの、声の大きいもの、富んだもの、権力を持ったもの、…だからというのではなく、つまり、その人又は団体の主観的属性によるのではなしに、法に則って、いずれが正しいのか、いずれに理があるのか、を裁定するという作用に関わっています。
ですから、いやしくも、法律家たるもの、「言いくるめ」の精神を憎まずにはおられない、というべきなのですね。
ところが、実際には、決して多くはないけれど、「いろんな人」がいらっしゃる、と思います。
パフォーマンスなのかも知れないけれど、個人的には、大きな目を開き睨みつける、大声を出す、という相手方代理人に会ったことはあります。
「あんた、判例知らないのかね。」と言われました。(判例の射程を争う、あるいは判例理論からすると負け筋であっても、当事者間ではどうにもならない問題をあえて裁判でルールに則って調整をしなければならない、という事案もあるのですが。どうも、それをご理解いただけなかったようです)(ちなみに、裁判所側は十分にご理解を示してくださいました)
仲間内の話しでは、決して多くはないけれど、机を叩く、罵倒する(裁判官のいないところで)、という代理人に出会ったという人がいました。
驚くことに、そういう行動をされる方は、決して能力・技量の低い方ではないようです。(わたしに関しては、あまりの出来の悪さに、相手方代理人がついに怒ってしまったということが当てはまるかも知れませんが、仲間に関しては、それは断じてありません。だから、悲しいかな、「そういう人」は我が業界にも皆無ではないということなのですね)
マックス・ヴェーバーが予言したそうです。
かりそめにも、資本主義とこれを支える精神的基盤に退廃が生じたとするならば、「精神のない専門人」と「心情のない享楽人」が「自分たちが人間の再考の段階に登り詰めたというふうに自惚れるようになるだろう」と。(p.14)
わたしたちは、業界の人間に限らず、少し学ぶと、自分がえらくなったように思いがちです。他人よりも知っていると思うと、ついうぬぼれが出ます。
多くの場合は、世間や、何かに叩かれて、反省し、また出直すのですが。
叩かれる経験がなかったり、叩かれる間隔がやや長くなったりすると、自分を見失い、「我こそは改革者なり」と独自の説や発明を世に問いたくなってしまうこともあるのでしょう。
大塚久雄先生は、「創造の過程と成果」という論文で(これは、東大の学生向けの講演がベースになっています)、こんなことをおっしゃっています。
「学問は自分1人だけでやっているわけではなく、天才と呼ばれる人々をも交えて、縦にも横にも
多くの先人や同時代人たちが築き上げて来たその成果の上に立って行われる、また行われるべきもの」(p.239)であり、「さしあたり、
彼らの実証と理論に基づいて研究を押し進め」、「どうしてもついて行けないところが出てくる。そうした
せっぱつまったところで、おのずから生まれてくる疑いこそが真に学問の上で生産的な疑いでしょう。」(同)、と。
わたしには、ここで大塚久雄先生がおっしゃる、「学問」を、「ビジネスにおける成功」とか、「人生」とかに入れ替えても良いのではないかと思っています。
よりよく生きるために、「多くの先人や同時代人たちが築き上げて来たその成果」に学ぶ。
大塚久雄先生やマックス・ヴェーバーの基本的な考えや、対談相手の方の考え等の知識が得られたことも大きいのですが、何よりも、
学ぶ姿勢の大切さ、学び続ける態度の価値を教えられたことが何よりも大きい収穫でした。