ダビデ王とバテシバの話を思い出しました。
旧約聖書のお話です。
ダビデは、偶然に人妻バテシバの水浴の姿を見て、心を奪われます。
自分の兵隊の妻であることを知りますが、夫が戦地に行っている間に、バテシバを呼び出し、強いて関係を持ちます。
しばらくして、ダビデはバテシバから妊娠を告げられます。
ダビデはバテシバの夫が戦地から戻るのを首を長くして待ちました。
バテシバの夫が戦地からもどり、将軍と一緒にダビデに謁見をしました。
ダビデは言います。バテシバのところへ行ってバテシバを抱いてやれ、と。
しかし、バテシバの夫は特別扱いを受けることを拒否し、他の兵士とともに駐屯地に留まります。
途方にくれたダビデは、将軍に命じて、バテシバの夫を最前線の激戦区に送り出せと命じます。
バテシバの夫は、激戦区で名誉の討ち死にをします。
ダビデは、その知らせを受けて、バテシバを自分のものにして妻とします。
「ユダヤ人最高の知恵」の著者である前島先生は、ユダヤ人は自分たちの王を愛しつつも、ダビデ王の最大の汚点を国教の教典である聖書に書いていること、隠し立てして美化や神格化しないリアリステックな姿勢を評価されていました。
欠点はあるが、それを生涯悔いつつ、大きな国家事業をなしたダビデを受け入れ、愛するユダヤ民族の度量の広さについても。
わたしも同感です。
ひとつの「ゆるし」の型であるとも言えます。
ゆるし、ゆるされるということは難しいことです。
一時の過ちで被害軽微な場合には容易かも知れませんが。
いろんな利害関係者が存在し、被害も小さくないとき、永遠に続く「死に至る」争いになることがあります。
中東では今も戦争が続いています。
中東だけでなく、わたしたちの身近でも小さな紛争は絶えず起こっています。
旧約聖書とジェラルド・G・ジャンポルスキーの本を読んでみたくなりました。
ゆるす。
ゆるしたり、ゆるしを得ると、体の緊張も解けます。
現代社会人は臨戦態勢でいることが少なくありません。
もう少しばかり他人と、自分自身をゆるすことも多分必要なのでしょうね。
少なくとも、論理の上で白黒ついた後は。