*以下は、不法行為に基づく損害賠償請求事件を念頭においた私論です。
1.人間の記憶のあいまいさ
人間の記憶はあいまいです。
さらに言うならば、記憶とは作り替えることが可能なものです。
悲惨な出来事、思い出すたびに苦痛しか感じない出来事について、それらの出来事の中に存在した小さな良いことに焦点を当てて記憶を再構成し、人生をやり直すという好ましい部類の記憶の再構成もあります。
しかし、感受性の高い純粋な人が、多くの人であればほどなく立ち直り乗り越えて行くような、誰にでも起こりうる出来事に傷ついて、素因によりあるいは周囲の善意の誤導によりその傷を深め、日常生活に支障を来すまでになることもあります。そうなったとき、そこから犯人探しが始まってしまいます。
記憶は自身に都合のよいように再構成され、受けてもいないひどい仕打ちを受けたという記憶になり、かけられてもいない言葉を浴びたことという記憶になり、そのために現在の自分の不幸な境遇がある、悪いのは自分ではなく、犯人は現時点で自分の思いどおりにならない他人だと思い込むようになったりします。(この他人は、通常、尊敬や友情や愛情の対象であった身近な人です)。
2.記憶(供述証言、被害申告)偏重の危険性
かつて、アメリカでの精神疾患の分類と診断の基準であるDSMの作成に一定の役割を果たした、PTSDの権威とも言えるジュディス・L・ハーマン(「心的外傷と回復」みすず書房)という学者がいます。一時期彼女の学説が力を得て、その影響下、アメリカにおいては決して少なくない罪のない男性たちが有罪判決を受け、あるいは多額の損害賠償を命じられたことがありました。
しかし、今は同氏の学説の問題性が厳しく指摘され、今や力を失っているようです。結局、いかに本人が気の毒な状態にあって、しかもリアルで具体的な供述でもって被害を申告したとしても、「虚偽記憶」である場合もあるのであって(被害を申告する者が精神疾患を持つ場合はなおさら注意が必要です)、必ず客観的な証拠が要求されねばならないという当たり前のことが改めて強調されるようになりました。(この点についての詳細は、「危ない精神分析」(臨床心理士八幡洋著、亜紀書房)が詳しいです。)
3.記憶と脳について
日本でも著名な東京大学医学部名誉教授養老孟司先生は、古館伊知郎さんとの対談をまとめた著書(「記憶がウソをつく!」扶桑社新書)でも次のように述べています。
【気づかないうちに記憶は独りでに変わる!?】
…記憶というのは、仮に脳全体に入っているとすると、絶対に変形するはずだと僕は思ってるんですよ。…つまり10年前の自分と今の自分は同じだと思っているんだけど、…身体を作っている物質なんかは、ほとんど全部入れ替わってしまってる。…ところが、我々が記憶と称しているものは、ただいま現在の記憶です。いま現在の脳に合ったものが残っているのであって、合わなかったら捨ててしまっているんです。…裏を取らないと絶対におかしいことが出てくる。(p.64〜65)
…記憶に限らず、人間というのは物語を作るものだっていうのは、ここ数十年で一種の常識になっていましよね。物語というのは別の言い方をすれば「嘘」だということです。それは、…部分的に真実。つまり本人がつないでいるに違いないんです。(p.70〜71)
…極端に言えば、脳の中のその部分を刺激したら、虫歯なんかなくても「痒い」と感じる訳ですからね。(p.172)
本当に記憶というものはあいまいでいい加減なものなのですね。
4.虚偽記憶の排斥
先のジュディス・L・ハーマンの学説に異を唱え、実地検証によって記憶を作り替えることができることを証明したのが、エリザベス・E・ロフタス(「抑圧された記憶の神話」誠信書房、「目撃証言」岩波書店)です。
ロフタスは、犯罪の目撃証言の不確実さを検証し、また実際には有りもしないショッピングセンターでの迷子の記憶を不特定の多数の人に植え付けることに成功し、記憶があいまいなものであり、容易に作り替えられることを証明しました。
事実認定においては、客観的な証拠、裏取りが不可欠であって、例えば「足を踏まれていたいと泣いている人」が損害賠償を請求してきたなら、本当に損害があるのか、行為者の行為と損害との因果関係はあるのか、因果関係ある損害額はいくらかにつき、「足を踏まれていたいと泣いている人」の具体的主張に基づき、客観的証拠により立証されることが必須なのですね。
この点、治療では事情は異なり、医師及び治療補助者は、たとえ患者の申告が、再構成された偽りの記憶であり、事実とは違った虚偽の記憶であったとしても、それをありのままの事実として受け止め、信じてあげることによってラポールを築き、はじめて治療効果を上げることができます。
ですから、医師及び治療補助者の意見もそのようなバイアスがかかったものとして扱う必要があると思います。(いわゆるセクハラ、パワーハラ、アカハラ等の事件で、当事者の主治医、カウンセラーの所見が証拠提出されることがありますが、事実の問題と患者の主張ないし意見や患者ないし医師もしくはカウンセラーの評価の問題とが明確に区別されて書かれた意見書なのかどうか、注意をして検討することが必要ではないかと思います。)
5.被害者の立場から
これを被害者からみた場合、自己の主張が虚偽記憶によるものではないことを証明する手だてを用意しておかなければならないということになります。
決定力のある証拠に乏しい事件の場合、どちらかが嘘を言っていることになりますが、立証責任の分配からすると、通常の場合、請求側が、損害、侵害行為、侵害行為と損害との因果関係、損害額について証明しなければなりません。
特に、侵害行為及び侵害行為と損害との因果関係について、直接にその存在を証明できるだけの証拠が無い場合、その前後の状況、変化したもの、変化していないもの、過去に類似の事件ないし事故があった、なかった、素因の不存在、等有利な間接事実や間接証拠を多く用意しておく必要があります。
精神的苦痛を受けられて損害を蒙ったという場合、医師やカウンセラーに意見書を書いていただく場合にも、ステレオタイプにPTSDを安易に認定し、原因行為を断定的に書かれるのではなく、事実の問題と意見・評価・推測の問題とを明確に区別して書いていただけるようにしたいものです。
特に女性や弱者が被害者の場合等には、被害の深刻さ、気の毒さから、関係者や専門家の騎士道精神により、第三者から観ると、どうも冷静さや客観的な証拠を欠いた断定的意見の表明が目につく意見書になってしまうことがあります。
6.相談を受ける弁護士のスタンス
相談を受けた時、まずは被害ないし損害の深刻さとは別に、客観的証拠により裁判所のご理解を得られるかという検討が必要になります。
刑事事件等では、検察側証人の供述証言の信用性について、「終始一貫して」「具体性に富み」「迫真性が」あるかどうかで安易に「信用できる」とされることがありますが、むしろ民事事件ではそんなことは通用しないと思った方がよいという印象があります。(刑事事件でも弁護側の証人については、いかに「終始一貫して」「具体性に富み」「迫真性が」あっても信用されていませんが、それと同じです。)
被害ないし損害の深刻さに、憤り、被害者とともに涙することがあっても、それを裁判にしたときどうなるか、は常に意識します。
決定力に欠ける証拠しか存在しない場合、請求側が負けるということがあるということを十分に説明しなければなりません。
「事件の全貌をわかっていただけたではないですか!」と怒られたとしても、「相手の立場に立って考えてみましょう。あるいは、あなたが裁判官であったらどうしますか?」と勇気を持って問い返させていただきます。
有利な間接事実、間接証拠を積み上げて行き、「もしかしたら、勝てるかも…」と、それ以外に不利な間接事実、間接証拠が出てこないことを前提に、「6:4で勝てそうかな…」と思えるときに、「コストはかかりますが、やってみる価値はあるかも知れませんね。」と申し上げることが可能です。
ただ、請求原因によっては、決定力のある証拠不存在で裁判を起こした場合、相手方から「不当訴訟である!」として、被害者、時には弁護士も慰謝料請求の被告とされてしまうリスクもないわけではありません。
わたしたち弁護士は、相談者や依頼者のご主張を信じたいと思っています。
しかし、だからと言って、決定力ある証拠のない事件について、「では、裁判をしましょう!」とは安易に言えないのが実情です。
このことは、いくつかの事件を通じて、記憶のあいまいさを知り、記憶がいかに終始一貫して」「具体性に富み」「迫真性が」あっても意識的あるいは無意識的な虚偽記憶である可能性があることを身をもって知ってから痛感していることです。
弁護士にご相談をされる際には、一発で決着がつくような直接証拠、それがなければ周辺的な間接事実、間接証拠、問題となる行為の前後の状況及びその変化等についての詳細な情報を資料にして(時系列表、その事件に直接関わる関係資料集、その事件解決の参考になる一般図書、文献等の参考資料集を用意されるとよいでしょう)持参されるとよいと思います。