証言の信用性は、首尾一貫しているかどうか、具体性に富み写実的かどうか、客観的事実に整合しているかどうか、が吟味されます。
一番大事なのは、客観的事実に整合しているかどうか、です。
もっと言えば、客観的事実こそすべてであるべきだ、と思います。
証拠書類がある、証拠物があることが一番です。
契約書、写真、録音音声等、物的な証拠が存在すればまず間違いない。
ただ、そういった物的な証拠がない事件もあるから、というか「ない」からこそ事件になるので、頭を悩ますわけです。
首尾一貫しているかどうか、具体性に富み写実的かどうか、は以前から大事だと言われていました。わたしもそう思っていました。
刑事事件でも、被告人が否認しているにも関わらず、「自白調書は当初から首尾一貫し、具体性に富み写実的であるので、信用できる。公判廷での否認証言は信用できない。」と切って捨てられることは非常に多いです(当初から警察官の誘導によっていると主張しても、一旦認めてしまえば、自白調書をひっくり返すことはまずできません)。
しかし、そういう判断法は危険だなと思います。
なぜなら、記憶は常に作り替えられるからです。
誤ったインプットがあれば、それが事実と錯覚してしまうのがヒトの脳です。
ご興味があれば、下記の本をお読みください。
・「記憶がウソをつく!」 養老孟司、古館伊知郎著(扶桑社)
・「危ない精神分析」 八幡洋著(亜紀書房)
・「抑圧された記憶の神話」 E.F.ロフタスほか著(誠信書房)
・「ウソの記憶と真実の記憶〜人間の記憶はあとから創られる」 中島節夫著(KAWADE夢新書)
・「記憶は嘘をつく」 ジョン・コートル(講談社)
・「平気で嘘をつく人たち」 スコット・ペック
これらは、いかにヒトの記憶が危ういものであるのか、大脳生理学の見地、実証的見地から詳しく論じています。
養老先生と古館さんの新書、中島先生の新書は軽く読めます。
「危ない精神分析」では、ちょっと不安のある人、気の弱い人は簡単に偽の記憶を刷り込まれてしまうことが書かれていてちょっとコワイですね。
偽の記憶が刷り込まれてしまえば、それが真実だと信じ込まされてしまうのですから、証言はリアルで、終始一貫します。本当に、「ああ、この人は真実を語っている。」と実感させられてしまうのですね。
刑事事件でよくあるパターンは、警察官が「こいつは悪党だから、やっているに決まっている」という予断で調べを進め、気弱な被疑者が逆らわなければ早く出られると思って、全て言いなりに調書を作って行った、しかし、予想に反して、刑罰が思いとわかり前言撤回というものです。
ベテラン刑事にかかれば、過去の事案の知識は豊富ですから、リアルで詳細な調書を作るのはわけありません。
でも、誤解しないで欲しいのですが、警察官がすべてそうか、というとそうではない。何がなんでも罪を着せてやろう、犯人あげないと成績にひびく、ということばかりをされているのではないのです。
被疑者が何も言わないから、意見を言わないから、「たぶんこうだろう。」ということで説明をしていくうちに自然と出来上がってしまうことがあるわけです。被疑者も、「実は違うんだけど、そういうと心証悪いかな。早く済ませたいし。」と思って、黙ってしまうのでいけないのです。
こういうことは、民事事件でも少なくないです。
証拠の少ない事件では、「どっちが信用できるか」が問われます。
ある事件では、裁判官がはっきり言われたことがあります。
「原告と被告と、どちらかが明白な嘘を言っています。」
こういうケースでは本当に困ります。
上記の本を読んだら、もっと不安になりました。
依頼者側ももしかしたら誤信している部分があるかも知れないわけです。
この点は、依頼者側を全面的に信用するにしても、では、何をもって裁判所にアピールするか。
もちろん、これまで言われたことは押さえます。
具体性、終始一貫、写実性を持たせ、できるだけ客観的事実と整合するようにする。
最後は裁判官の心証ひとつ。
こういうことにならないように、常日頃から、法律問題に至りそうな恐れがなくても、物的証拠を残しておく習慣を持っていただくことですね。