監修本、次回作は、「債権回収」がテーマ。
債権回収は、貸金、代金、損害賠償金の請求訴訟をはじめ、弁護士なら、日常的に携る仕事。
過去には、借金整理の本を書いたが、弁護士の仕事としては、債権回収こそが、本来の仕事であるように思われているのではなかろうか。
なぜなら、債権回収は、契約その他により成立した債権を現金化する行為であって、いわば、抽象的権利を具体的に現実化する、もっと言えば、「権利の実現」行為だから。
これに対し、借金整理は、契約その他により成立した債権を、一部または全部を無効化する行為であって、「権利の実現」とは、真逆。
国選刑事事件と同様、借金整理の事件を遂行中、「なんでこんな仕事するの?」と言われることがある。
「約束守らない側をなんで弁護するわけ?」
「悪いのは約束守らない側でしょ?」
「弁護士さん、悪い側を助けるの?」というわけだ。
ただ、借金整理も、広い意味では「権利の実現」行為なのだ。
誰かの権利を正当に実現する過程で、義務者において、健康で文化的に生存する環境が破壊されそうになったとき、他者の権利を一定の条件の下で制限する必要が生じることがある。義務者にも、生存権(憲法25条)があるからである。
そういった背景から、困窮し、露頭に迷いかねない義務者を救済すべく、民事再生では債権を一部カットされ、破産では債権の全額をカットされる。
そうすることで、義務者が「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるように、義務者の生存権を実現できるようにする。
弁護士バッジの絵柄は、ひまわりの中に天秤。
弁護士の仕事は、「権利の実現」行為であり、そこにおいて、衝突する権利と権利の調整が必要となる。
権利の実現手段である法律(実体法)や手続(手続法)の規定には、既に、衝突する権利と権利の調整の理念が盛り込まれている。
憲法の理念を思い出してほしい。
憲法の理念は、個人の尊厳を確保することにあり(憲法13条)、そのためには、個人の自由と平等を保障する必要があり、個々人に自由権と平等権が保障されている。
そもそも、憲法において、個々人の権利の衝突とその調整は、予め想定されている。
憲法に定めのある「公共の福祉」による制限というものは、そういう意味として理解されている。
また、そもそもが、憲法の定める自由権は、権利である。権利のおおもとである。
そして、平等権は、各々の相違に基づいて、等しく扱われるように要求できる権利である。
実は、この自由権と平等権は、そもそも対立緊張関係にある。
自由権ばかりが強調されれば(過度な資本主義)、平等権の要求が不可避的に生じる(社会政策的要求・社会主義)。
実際に、憲法は、自由権(資本主義)を原則とし、それによって生じる弊害を最小限に抑えるために、社会権(生存権、教育を受ける権利、労働基本権)をも定めている。
このように、権利と権利のバランス維持は、我が国の憲法がよって立つ、立憲民主主義の目的であり、裁判に関わる裁判所や弁護士の使命でもある。
私自身は、弁護士の仕事がそういうものである以上、債権回収も、借金整理も、両方やるのがいいと思う。双方の立場がより分かるから。
離婚事件でも同様、男性側、女性側の両方の立場でやるのがいいと思う。
片方だけしかやらない、やれないでいると、そのやっている仕事のクォリティもなかなか上がらない。
両方やってこそ、それぞれの仕事がよく分かるようになる。
そう思うから、私は、両方やる。
その延長で、債権回収の監修で、これからいくらか刺激を受けそうなので、今後、バランスのため、借金整理本の新しい著者本を1つ、債権回収の著者本をいくつか書いてみようか、などと不遜にも考えている。
できるだけ早く、著者本もご紹介できるよう、努力したい、…と思う。
(監修本と違って、著者本は相当に体力が要るから)
補足: 借金整理本、と書いたが、次回作は、CMで今だにあおりを入れてる、過払い金請求とか、サラ金の任意整理でなく、企業倒産を中心にしたい。
借金整理といっても、私の場合、毎月1件の企業倒産事件の申立をしていた時期もあり、どちらかというと、それと合わせた関係者の破産、再生と個人の住宅ローン破産を中心にやっていた。
そのまとめをいつかやりたい、と思っていた。