わたしは、全ての良いものを追い求めています。
日々成長し、世の中の役に立つ存在になりたいと思います。
だからできる限り良いもの、ことに焦点を当てて、日々学んで行きたいと思います。
ただし、わたしは、天より受けている全ての良いものと同時に、現に存在する否定的なものを無視してはいけないとも思っています。
立花大敬先生も、生きて行く上では修羅道を行くことは避けられないと書かれていました。
釈迦も、生きて行く上で煩悩は避けられないと言われたといいます。
個体として、一人の人間として生きている以上は、自我というものが必要であり、自己保存本能や自己重要感がなければなりません。
そういった、自己保存本能や自己重要感がいびつに増大すると、社会の中で大きな問題を起すのですが、通常の場合でも対人関係や社会経済上の関係において一定の緊張関係は避けられません。
自己と他者を分けて考える「割る」考え方は仕方がないけれど、過ぎれば「悪」い考えになります。
自分に関する限りでは、自分と周囲の人たちを苦しませるような形で自我の力を発揮しないように心しつつ、現にいびつに増大した自我を持った人たち、一時的にせよ「割る」考えが過ぎてしまった人たちが存在することを頭に置いておく。
そして、自分も、注意しなければ同じ過ちを犯す、そういった人たちと何ら変わらない人間なのだということも頭に置いて、自己を律して行こうと常に思うこと。
そういう姿勢でいることが大事だと思っています。
一時的な想念や感情の高揚だけで万事解決してすべてハッピーになれるわけではありません。
中村天風師の本に、「救われたと称している人が相変わらず人生の苦難に苦しみ悶えたりしているのが不思議でならない」とあったことを思い出します。
現に存在する苦難やチャレンジをものともしない自我、そういった人格の形成ないしは意識の統御方法こそをしかと学ばなければならないし日々実践していかなければならないと思っています。
わたしは理想主義的楽観主義的ではありますが、リアリストでいたいと思います。
そういう意味で、斎藤一人さん(よくよく聴くと講演CDでも厳しいリアルなお話をされています)や立花大敬先生のお話にはとても学ばされています。
また、心理学の本や脳機能学の苫米地英人先生や自己洗脳の石井裕之先生の本なども役立ちます。
そんな流れのなかで、最近、闇の部分を意識させられることもあり、「呪いの研究 拡張する意識と霊性」(中村雅彦著、トランスビュー)を読みました。
まだ、精読していませんが、とてもインパクトがあります。
研究者らの成果の引用も多く、学問的でもあります。
以下は、一番心に残っている部分の引用です。
「我々が心の光や善良さだけを追求し、心の闇や影の領域を否定しようとすればするほど、圧倒的な闇の力も深まって行くことを忘れてはならない。」
「私は愛と光と善良さだけに目を向け、憎しみと闇と悪を自分の中には無いものと否認し、それから逃れようとする一面的な態度こそ、ノンローカルな意識(注:個人を超えた共同意識、共生意識か?)の本質を見失い、一なる心からの反動に対する免疫力、抵抗力を弱めると考えている。
心の光の部分だけを保持し、闇を抑圧すると、実際に闇体験や、ネガティブな出来事に遭遇したときに、意識の全体性のバランスを崩してしまい、かえって悲劇や病やアクシデントに逆襲される可能性さえある。」
「善良な人々の身にも否定的な出来事は平等に降りかかってくる。
しかし、厳しい現実から目を背けたり、逃避したりするのでなく、それに立ち向かったり、ときとしてあるがままに受け入れたりすることによって、活路が見いだされることもあるのである。」
今でも
フランチェスコの祈りは自分の理想です。
この祈りには「憎しみ」「悲しみ」「暗闇」も前提にされています。
フランチェスコの場合には、自分の中にはそういったものがなかったのだと思います。
でも、ふつうの人に、自分にはそうではない。
学生時代に甘い気持ちで憧れたこの祈りが、彼にしか祈れない祈りであって、厳しい覚悟の勇気をもって祈らねばならない祈りであるということが改めて感じられるようになりました。