「縦に書け!」(石川九楊著 祥伝社)¥952
今日は、朝から岐阜県大垣支部で裁判があり、午後からは4件の打合せでした。
やっと一息、お茶の時間となりました。
この本は、大垣支部への行き帰りの電車内で読みました。
著者は京大法学部卒業の書家であり、京都精華大学教授です。
著者は、現代社会は「言葉が力を失った社会」である、と言われます。
昨日までに、わたしは、「言葉には力がある」と書いてきました。
では、著者の考えはわたしの考えとは違うのでしょうか?
著者の考えを読んでいきますと、言葉の表面上は違うようにも思えますが、実質においてそれほど違いはないという気がします。とても著者の意見には共感できましたから。
酒鬼薔薇事件、長崎の小6殺人事件等、若い世代の犯罪から書き始め、「現代の若者たちは無垢な純粋さと悪魔のような残酷さを分裂したまま併せ持っている存在」ではないか、そして、それは現代の大人も同様ではないか、と言われます。
「人間の精神が制御不能」になっている、と嘆かれます。
市場経済が行き過ぎ、物の本当の値打ちや使用価値ではなく、いくらで売れるかという交換価値が重視される社会になっていて、自分の値打ちがわからなくなっている若者らにとっては、大人が言う、「相手の身になって考えよう」という言葉があまり空しくなっているという状況がある、とも。
(「自分はいつ死んでもいいから、相手を殺して自分も殺されるならそれでいい」という自意識がある人には、通じない言葉なんでしょうね)
そこで、著者は、「殺してはいけないから殺してはいけない」と、「相対」と「有償」と「交換」の枠組みからはずれて、「絶対」と「無償」と「非交換」の論理に立つしかない、と。
また、これはわたしが気に入った表現なのですが、「文明、文化に文という文字が出てきますが、この文、すなわち言葉の働きによって、原始的な獣(ヒト)の状態から激しく人間へと脱出していく時期が反抗期と言われる時期なのです」と言われます。
ところが、現代社会には、軽いノリの話し言葉しかない、思慮深さも、思いやりも、想像もなにもなく、自制や自省もなく、軽卒気ままに放出される言葉しかない。
それと、最近の若者には、どもりや赤面症の人がいなくなったが、それは対人関係、コミュニケーションにおける遠近法がわからなくなっているひとつの証拠でもある、と。
そうして、キーを打つのではなく、書くことの効用と大切さ、横書きではなく、縦書きの大切さを、理論的に詳細に説明されるのです。
これは、非常にお買い得な本でした。
個人的には、こうして打鍵するばかりえではなく、原稿用紙をペンで埋めることや習字用紙に向かう時間を持とう、と思いました。
さて、現代社会では、言葉には力がないのでしょうか?
いいえ、わたしは、現代社会でも、いつの時代でも言葉には力があると思います。
言霊、と言いますしね。
また、「言葉は神であった」と聖書にあったような気もしますしね。
現代社会では、物事の本質を衝いた言葉が語られることが少ないのだと思います。
物事の本質について深く考える習慣を持って、思慮深く語る人が少なくなったからではないか、と思います。
場当たり的で、表面的な付き合いしかしない人が多くなり、語られる言葉も上滑りしたものでしかないことが多くなったからではないか、と思います。
でも、ホントは、ここまで難しく考えなくていいのかも知れません。
この本は、偶然見つけて買った本であるのに、好奇心が刺激されて、とても面白く、集中して一心不乱に読んでしまったのですが、いつもいつも年がら年中、この本で書かれているように重たく考える必要はない、とも思うのですね。
ずっとずっと簡単で単純だけど、それ自体力があって、周りの人が明るくなるような、心が軽くなるような「言葉」を、ふだんからできるだけ口にするようにしてられれば、それだけで環境が、状況が変わり始めるのではないか、と思います。
ありがとう
感謝しています
大好きです
ゆるします
しあわせです
思っていなくても、こういう言葉を口にしていると(それ自体無思慮なようで、苦しい時には努力が要るのです)、きっと良いことがあるように思います。
長い文章をここまで読んでくださって、ありがとうございます。