5月に依存症について、人前でお話をします。
お題が「依存症」であり、合計3人の講師がいます。
私は、主に「薬物依存と法律」についてお話をします。
今、少しずつ準備をしていますが、依存症については、なかなか興味深い発見が多いです。
何かをして欲しい、話をして欲しい、説明して欲しいと頼まれて、「めんどうだな。」「嫌だな。」と思うのはごく普通の反応ですし、私もそうでした。
しかし、昨年末に決めた今年の抱負の1つは、「頼まれごとはできるだけ断らない。」です。
その抱負を決めて、初めて口にした、その場にいらした方々からのご依頼での、今年初の講師役。
心を決めて、準備を始めたら、とてもおもしろいです。
ここで少しだけ、シェアさせて頂きます。
依存症とは、どんなものでしょうか?
ウィキペディアによれば、「依存症とは、世界保健機関(WHO)の専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態のこと。」です。
そして、アメリカ依存学会によれば、「依存症とは、脳内の報酬、動機、記憶、及びそれらに関連する回路における原発性の慢性疾患である。」(ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」より)です。
いかがでしょうか。
お気づきになられましたか?
ウィキペディアでは、『状態』なのです。
アメリカ依存学会の定義では、『疾患』です。
『状態』なのか。
『疾患』なのか。
「そんなこと、どっちでもよいではないか!」
そうおっしゃる方は、もう一度、考えてみてください。
『疾患』となると、それは、お医者さんにかかる分野になります。
保険適用があるというお話になり、厚労省の取扱範疇になります。
『状態』であれば、それは、個々人の責任分野であって、それが原因で何か問題を起こしたならば、法務省の取扱範疇になります。
依存症には、(1)物質依存、(2)過程依存、(3)関係依存があります。
(1)物質依存では、薬物、アルコール、タバコ等。
(2)過程依存では、ギャンブル、買い物、インターネット、ゲーム等。
(3)関係依存では、恋愛、ドメスティック・バイオレンス、モラハラ等。
この中で、(1)物質依存の薬物依存では、『状態』説が明確に優位的ではないかと思います。
薬物依存の状態で犯罪を犯して、「病気なんだから、仕方がないではないか。責任無能力ではないか。」というのは通用しないことになっています。
ネットでぐぐってみましょうか。
「依存症」「病気か」等で検索をしてみます。
すると、「依存症は病気です」と書かれた、『疾患』説のサイトがいくらも出てきます。
法律家は、お人好し過ぎてはダメなので、いつも、「誰得?」ということを考えます。
法律家は、性格が悪いです。
法律家は、議論をするのが仕事なので、議論が有意義になるよう、議論の対象を絞込みます。
その議論を絞り込むのに用いるのが、カテゴライズ、範疇化です。
範疇化には、定義です。
法律家は、定義を大切にします。
定義から始め、議論の対象を絞込み、議論を始めます。
しかし、時に、「定義が騙す」ということも知っています。
法律家は、定義を大切にしつつ、「あらゆる定義は価値的である」ということも知っています。
定義は、それ自体、客観的事実のようで、人々の、意図や意欲や意味付け、バイアス、つまり、主観に色付けされた価値が加味されているのです。
争いのない定義は、その定義を支える価値が、普遍的で、万人が、少なくとも、一般人の殆どが争いなく首肯できるようなものだけで構成されているものです。
「依存症は病気です」そう書いているサイトの管理人や、記事の作成者の肩書は、お医者さんだったり、薬剤師さんだったり、医療関係者、周辺の方々であることが多いのです。
人は、自身の得意分野、あるいは自身が関与できる方に引き寄せた定義付けをしたがるものです。
ここは、慎重に検討してみるのが良さそうです。
そもそも、『疾患』とは何でしょうか?
『疾患』、すなわち『病気』と言い換えができますが、『疾患』『病気』とは何でしょうか?
『疾患』『病気』とは、最も争いのない最小の定義付けは、「生体組織の器質的異常、もしくは、機能的異常のこと。」です。
ここで、「生体組織の器質的異常」とは、生体組織における病理的・解剖的な異常により惹起される異常のこと。
「生体組織の機能的異常」とは、解剖学的・病理的な異常が不見当であるにも関わらず、生体組織の働きや能力が低下することで生じる異常のこと。
そして、「生体組織の器質的異常」と、「生体組織の機能的異常」とで共通することといえば、これらには、
(1)客観的検査方法が存在すること、
(2)不随意活動であること、です。
『疾患』『病気』は、例えば、お医者さんにかかるとして、治療を受け、投薬されることになるには、客観的検査によって、『疾患』『病気』を具体的に特定しなければなりません。
『疾患』『病気』と治療方法は、明確に関連付けられており、関連しない治療は、有害無益であり、また、保険適用できなくなりかねません。
そのために、客観的検査方法が存在しています。
また、『疾患』『病気』であると言えるためには、自発的意思によらない、自身でコントロール不可能であることが必要でしょう(ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」参照)。
依存症ではどうでしょうか。
「生体組織の器質的異常」や「生体組織の機能的異常」が認められるのでしょうか。
(1)客観的検査方法は存在するのでしょうか、(2)不随意活動なのでしょうか。
ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」によれば、
どうやら、(1)客観的検査方法の存在、(2)不随意活動性については、疑問符がついたままのようです。
ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」(デイミア・トンプソン著、中里京子訳)は、依存症サバイバー、克服者が原著者であり、示唆に富んだ本です。
お医者さんが書かれた、『疾患』説の本も読みましたが、この本がきっかけで、性格の悪い法律家らしく、ニュートラルで、幅広く、様々な文献に当たっていこうと思うようになりました。
ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」では、『疾患』説ではなく、どうやら『状態』説で一貫して書かれています。
『疾患』説の良い所は、依存症で苦しむ人に対して、「あなたが悪いのではない。病気なのだから、仕方がない。あなたに必要なのは、意思を強くすることではなく、治療なのだ。」と慰めてくれることです。
『状態』説の良い所は、一般人に対して、「依存症は、人が偶然かかる病気だったり、特別の人がかかる病気なのではなく、誰でもがなりうる状態であって、依存させることで多くのビジネスが成り立っている現代社会では、あなたも、わたしもなりうる危険がある。」と教えてくれることです。
私は、『疾患』説が正しくない、『状態』説が正しい、と言うつもりはありません。
ただ、基本的には、『状態』であって、『疾患』となっている患者さんもいるのではないかという気がしています。
個々の依存症で苦しまれている具体的な人によっては、『状態』から『疾患』に転化していることもあるのではないかと考えています。
それよりも、関心があるのは、やはり、「依存症にならないためにどうしたらよいか。」ということであり、「依存症を克服するためにはどうしたらよいのか。」ということです。
ダイヤモンド社刊行「依存症ビジネス」には、「依存症の人々の最たる特徴は、もっとも親密な一次的関係を、人とではなく物と築くこと」(p.18)とあります。
そして、以前、私が読んだ本の中に、「アルコール依存症を克服した人々の多くは、克服の過程で、あるいは、克服後に、利他的、スピリチュアルになっていた。」という一節がありました。
人との関係性を築けない人。
人との関係性が壊れてしまった人。
そういう人との関係が希薄になってしまった人が、(1)物質依存、(2)過程依存、(3)関係依存に陥ってしまうであろうことは想像に難くありません。
とするならば、古くから、断酒会なので執られていた、依存からの離脱メソッドは、やはり有効性があったのだと思わされます。
現代では、その離脱メソッドを用いて、セレブやお金持ちの依存者から法外な報酬を取っている業者がいるという指摘もありますが、「他者との良好な関係性を形成、維持することが、依存症を克服する、重要な鍵になる。」ということは、間違いなさそうに思えています。
さて、私のお話では、どこまで研究して、どこまで触れるか。
まずは、あと1~2か月、目一杯広げて、最後の1~2週間で、絞るようにとしたいです。