「『気』の人間学」(河野十全著 青葉出版)
ネット古本屋のリストで見つけて購入しました。
河野さんは、中央大学のOB。
明治30年生まれの大先輩。
実業界で成功し、上海事変の時には飛行機をお国に献納したとあります。
スゴイ人なんですね。
戦後は人間の研究に没頭したとあります。
人間の研究家、船井幸雄さんの先輩でもありますね。
2004年に亡くなられたようです。
この本は、91歳の時のもの。
はじめのうちは、おじいさんの説教調の「ありがたい、ごもっともなお話」なのかとたかをくくって読んでいました。
「身体を大事に、五官を大事に、肉体が主であり、自我意識は従である」というお話や「正しく呼吸し、水のおいしさを味わい、感謝すればよい、その感動と謙虚さが細胞のひとつひとつを瑞々しく活性化させてくれる」というお話からおもしろくなっていきました。
なるほど、と思わされたのは、現在も続く格闘技ブームに対する分析。
まず、「白眼というのは、高等霊長類の中で人間にだけある」というところから入ります。それは、「チームワークをするに際して、仲間の注意、視線がどこに向けられているか瞬時に判断する必要からだろう」、と説明されます。
そして、「『眼は心の窓』というように自分の情報を外に発信し、相手の眼から相手の情報を得ている」と言われ、「野生動物にみられるプレゼンティング(ケンカになったときのごめんなさい、服従しますというポーズのこと)が人間では眼を通じて行われる」ことを説明されます。
ところが、「相手の存在、状況を眼の中に認めるという人間本来の行為をしないキレる若者は暴走する」と展開され、そして、「格闘技こそが『相手を認める』約束に成り立つ、『個』の存在がはっきりと存在する競技なのだ」と言われるのです。
以下は、そのままの引用です。
「競技は始終相手の眼を見ながら行われる。一対一のフェアーな状況を創り出している。そこに、現代文明がかえりみない『個の存在』がきわめて原始的なかたちで認められている。そして、競技は力と技の優劣か、また時には『参った』の自らの意思表出で終わるのである。」
地球上の生命のほとんどが仲間の存在を認め合って生きているけれども、人間は。どうもそうではなくなってきているようだ。でも、格闘技こそ、まさに相手を認め、尊重する精神が生きているのだ、という帰結です。
わたしも格闘技が好きです。
時には残酷な展開にもなるけれど、プライドも好きです。
ヴァンダレイ・シウバ、強いですよね。
以前、ある選手が言っていました。「ヴァンダレイの闘いには相手に対する尊重や敬意がない。俺が彼の鼻をへし折って傲慢さをなおしてやる。」と。
最近、ヴァンダレイの闘い方が変わったように思います。
研究され、一時のような勢いでは闘えないし、彼自身、人と闘うことの「怖さ」がわかってきたような気がします。殺し合いではなくて格闘技をすることがわかってきたようにも思います。
そう言えば、ボブ・サップ。
彼は負けを知るまでは、かなり激しく容赦なく闘っていました。
しかし、ミルコ・クロコップにパンチで眼底骨折をさせられ、全く変わってしまいました。彼の心は折れたまま。見る影もないですね。
そして、曙も。大好きな人なので残念だけど。
格闘技、武道はいろいろ教えてくれる気がします。