昨年末ころから、民事損害賠償論について考えていました。
私は、実務家であり、今は刑事事件は扱いませんが、勉強中は刑法も大好きでした。
刑法では、犯罪者とされると、自由を拘束され、名誉を奪われるという大変な不利益があるので、どんなことをしたら、どんな罪に該当し、どんな刑罰を科されるのか、予め明確にすること、つまり予測可能性が大切です。
そうでないと、行動の自由が保障されないからです。
憲法では、人権、人としての思想信条の自由と行動の自由をも保障しています。
では、民法では違うのか。
やっぱり、どんなときに損害賠償請求を受け、どの範囲で損害賠償義務があり、一体いくら支払わなければならないのか、予め明確にされないと、やっぱり、安心して経済活動できないのではないか、行動できないのではないか、と思います。
民法でも、刑法と同じように、やっぱり予測可能性は守られなければなりません。
しかし、それにしては、民法の不法行為論、損害賠償論は、刑法ほどにはしっかり議論されていないように、司法試験勉強中は感じていました。
平井宜雄先生の保護範囲説以降、損害賠償論の議論は進んでいます。
私は、田山輝明先生の基本書、参考書が好きですが、田山先生も、平井先生の立場を受けて、論を展開されています。
最近では、刑法の曽根威彦先生も論文を書かれています。
どれも、とても参考になります。
私は、偉大な先生方の書かれたものを読み、感動しつつも、もう少し、踏み込んでもいいのではないか、はっきりさせてしまってもよいのではないかという感想を持っていました。
それは、この十数年関わってきた、いくつかの深刻な損害賠償請求事件、大気汚染公害事件や企業間取引での損害賠償請求事件における、共同不法行為・債務不履行の競合、特別事情による損害の拡大、拡大損害の発生と個々の当事者(行為者、企業)の負うべき損害ないし賠償義務の範囲について、頭を悩ませるうちに、やはり明確な行為基準になるような、立法、立法がすぐにはできなくても、予測可能性を担保できるような、解釈論が示されることは不可避ではないかと確信しました。
そして、最近、私が関わっている事件のいくつかについて、裁判例を調査検討するうちに、裁判例に示される、個々具体的な事案での妥当な結論を導ける、解釈論らしきものを思いつきました。
刑法好きの私らしく、刑法における実行行為論や因果関係論を、民法の損害賠償論に移植しただけ、といわれればそれまでですが、刑法では徹底できなかった、客観的相当因果関係論(純客観説)が、民法では、公平妥当な結果を導くために利益調整をする、416条2項の存在により、徹底できるということで、刑法の通説・有力説を移植したわけではありません。
浅学非才で、頭の血の巡りも良い方ではありませんが、約20年のこれまでの実務経験から、「このように考えたら、妥当な結論が安定的に導け(多くの裁判例の結論を合理的に説明でき)、当事者間の公平も保てるのではないか」といえそうな考えを思いつきましたので(もっとも、田山先生の基本書と「特別事情による損害」の当てはめ部分が違うだけ ~されど、2項「特別事情による損害」と1項の損害の区別基準を一応は打ち立てています ~これは刑法の実行行為論を参考にしています)、ツイッターでシェアさせて頂きました。
以下に、再掲します。
【416条第1項の意味】「これに『よって』通常生ずべき損害の賠償をさせる」とあり、『よって』とは、因果関係を意味する。 ここでの因果関係は、事実的因果関係である。 『これ(=債務不履行)』と『通常生ずべき損害』との事実的客観的な結びつきがあること、関連あることを要求する。
事実的因果関係という、客観的に存在するか、しないか、を求めるものであると同時に、それが法的判断であることから、その判断は、①当事者の主観的事情の如何にかかわらず、②事後的に、純客観的になされなければならない。
刑法上の因果関係論における純客観説の判断構造と同様に、「当の債務不履行から、当の結果が発生することが①客観的、科学的見地から相当といえる場合には因果関係有りとし、②その判断の基礎とすべき事情は、行為当時から結果発生までに客観的に存在した事情の一切とする」というべきである。
事実的因果関係の問題であるから、その存否は、当事者の主観的事情とは無縁である。たとえ、当事者が認識していても、していなくても、意欲しても、意欲しなくても、存在するものは存在するし、存在しないものは存在しない。 「目をつぶっても世界は消えない」。
同様に、基礎とすべき事情は、およそ当の結果に原因力を及ぼす事柄であれば、行為時に存在したものに限られず、結果発生までの間に生じたものは考慮に入れざるを得ない。このように解しても、責任範囲は、416条2項により合理的に画されるのであって、債務者に不測の損害を与えることにはならない。
416条1項は、債務不履行と、事実的因果関係の存在が認められる「通常生ずべき損害」の範囲において責任を認めるということを定めており、当該損害を発生せしめた事情についての「予見可能性」の有無を検討するまでもなく、債務者に対して当然に責任を負わせるということを定めたものである。
問題は、「通常生ずべき損害」とは何か、ということであるが、素直に考えれば、「通常生ずべき損害」とは、「当該債務不履行それ自体が債務不履行時に具有する危険性が現実化したものといえる損害」である、ということができよう。
多くの学者は、「通常生ずべき損害は、契約類型ごとに判断するほかない」とし、「文字通り通常生ずる損害である」という(内田Ⅲ、p.158など)が、抽象的ではあるも、一応、上記の様に規範的に定義付けておくのが、個々の具体的事案についての具体的適用上、便宜であり、予測可能性を担保できる。
【416条第2項の意味】 「当該債務不履行それ自体が債務不履行時に具有する危険性が現実化したものといえる損害」を超えた損害が発生した場合、その損害は、当該債務不履行それ自体からは発生しえないのであって、「特別の事情」が存在したからこそ、発生したものである。
そして、そのような「特別の事情によって生じた損害」が発生した場合においても、「当事者」が「特別の事情」を予見できたときには、「特別の事情によって生じた損害」についても、債務者は責任を負う、ということを、416条2項は定めたものである。
民法の大原則である、意思自治の原則(=人は自らの意思に基いてのみ拘束される)のコロラリーである過失責任主義からして、予見可能性をもって責任範囲を画するということを宣言したものと解すべきである。
なお、予見可能性の主体である「当事者」の意味と「予見可能性の判断時期」この問題は、以上に述べたことは関連しない。『契約を破る自由』(内田貴Ⅲp.160)を承認するか、契約をした以上、契約は守るべしという原則を大切にするか、いずれの立場によるかで決せられる。
…以上(以下、裁判例の分析、事例への当てはめ例などの予定ですが、いつかどこかでまとめて発表できるようにしたいです)
長文になってすみません。