随分前に「剣術は敵を倒すという同じ目的があるのに多くの流派があったが、殺るか殺られるかの局面では僅な動きで決まるからだ」という言葉に感じるところがあり、メモにしていたのを今朝発見した。
改めて考えてみると、それはかつて多くの流派があったという事実しか述べていないとすぐわかる。
真剣勝負では死んだらしまいである。
生き残った方が勝ちであり、剣術において正しかったと思いたい。
極限状況を生き延びたのだから、正しく動いたことは間違いない。
生き残った者は命懸けの体験で掴んだもの、自分の命を救い、相手が命を落とした原因を追究し、これを秘伝のコツとして伝承した。
そうやって、流派が別れて行ったということだ。
真剣で命懸けの申し合いなど、何度もできるわけがない。
命懸けの真剣勝負で生き残った原因は、戦いの場、時刻、天候、相手の身体能力、双方の心理状況からして様々だ。
そうだとすると、十分に練りきれていない技術がそれぞれの流派になっている可能性がある。
上級のコツは、誰が、何時、何処で、どんな状況であったとしても、うまくやれる助けになるものだ。
何度もの体験、実践の試験を経て、普遍的な真理に近いものにまで昇華した技術になっていなければならない。
昔の真剣の時代の、幾多の流派に別れていた剣術がそこまでになっていたとは思えない。宮本武蔵の伝承が事実であったとしても、果たして彼が剣術を極め切れていたかというと疑問が残る。
極め切れていたとしても、具体的な技として受け継がれていないのであれば、個々具体的な真剣勝負での体験談を語り得た偉大な先達ではあるが、上級のコツにまで昇華することはできていなかった可能性がある。
やはり、竹刀が考案され、バンバン叩かれ、切られても死なない稽古ができるようになって初めて剣術は格段の進歩があったと言えるのではないか。竹刀を真剣だと思い、そう見做して、何十回、何百回、何千回と、実力が拮抗し、あるいは実力が上の者と稽古して剣術は磨かれ、発展していったと思えてならない。
たとえ、真剣で遙に実力の劣る相手を何百人斬り殺したところで、それが本当の剣術、上級のコツになることはない。
流派(派閥別れでなくて)が千々に別れるということは、まだ洗練されていないということであり、上級のコツとなっていないということだ。
逆にいうと、現代人は多くの場合、命まで取られることはない。
失敗しても死なない。
記録も、口伝や紙媒体だけでなく、ビデオでもできる。
同じことを目的として、幾多の実践を踏めば、必ずそこに道はできる。
同じことを目的としているのに、そこに到る道があるのに、そこを通らない手はない。
先人の記録に学ぼう。
真似よう。
先人の個性の部分で採用し難い部分は吐き出せばいい。
真剣勝負だから突飛なことをしてでも勝ちたいし、勝って生き残り、流派を開いた人もいただろう。
しかし、竹刀が考案されて、稽古が積み重ねられ、剣術が磨かれ、より高次に進み、流派は消滅したのではないか。
総合格闘技も、初めはバラバラだったが、セオリーができた。
空手もフルコン、防具、型の別はあるが、同じルールの中で流派の違いは派閥の違いレベルでしかない。
今生きているのはテストドライブではない。
リアルな人生。
真剣に何かを願うならば、突飛なことではなく、幾多の先人が磨いてきた手垢のついた方法で、轍のついた道でまず行こう。
そこで一所懸命に考えながら進むことで、より良い道を切り開くこともできるかもしれない。
少なくとも、計算でできるところまでは、誰よりも忠実に計算して計算通りに進んでみよう。
そこから先はお楽しみ。