「友だちってなんだ?」悪人正機・吉本隆明著
「親鸞は、いかに人間が善意で人助けをしようとしても、助けおおせるものではないといっている」
だから、人助けはしてもいいし、しなくてもいい。善悪の問題ではないという。
ここは素晴らしい。
善行をしても本当に善行となっているか、あるいは、善行をしていると誇った時点でその精神的価値が失われるということか。
宗教家は素晴らしい教えを伝える。
そして、得てして善行を積むことを勧める。
勧めるのはいいけれど、真理を預かり、時には天国の鍵を持つという指導者が勧めることは強制に等しい。
拒否の選択肢がない点で過酷だけれど、善行はいらないといえることはなんたる寛容。
結局、神も仏も愛なる存在であるならば、それが本当ということになる。
そして、吉本さん流の喧嘩論。
「相手が何かしてきてもまずは我慢。これはもうどん詰まりだとなったときに、そら喧嘩だ、と。こういう喧嘩のやり方ってのは本気にしかまれないから、勝ちパターン。引いて引いてもう我慢できねえっていう時に本気でやれば、大体は勝つ」
ぎりぎりの瀬戸際まで剣は抜かない、ってことか。
吉本さんが、退屈しのぎにいじめっ子をいたぶって逆襲に遭い、打ちのめされた話があるけれど、これには苦笑する。
私にも、高校時代経験があるからだ。
体育祭の練習で、整列していた時、私の前に中学時代の塾の学友Y君がいた。
少し、くそ真面目なヤツだった。
県下で3位だという校則によるしめつけの厳しい学校にも慣れてしまった頃だった。
後ろから、右足をそっと上げ、同じ背の高さのY君の右方の上に踵をかすかに乗せた。
彼が振り返ったら、私の靴底にキスだ。
指令台では、教頭が何かしゃべっている。
だから、Y君は「たーけー!」と言いながら、おとなしくまた前を向く。
そのはずだった。
しかし、彼は、目の玉をひんむいて激怒し、「何をするんだ!!」と言って、いきなりショートレンジから右ストレートを私の左顔面に打ち込んできた。
ズキン、としたがそれ以上には効かないパンチだった。
吉本さんは、下駄で殴られて卒倒したらしいが、私の時代は靴履きでよかった。
私は、「おい、おい、冗談だろうが」と言って顔を見たら、金魚のように真っ赤になりながら、半分怯えた目で私を見るY君の顔に吹き出した。
すると、すぐに腕力自慢の体育教師が、「おーい、Y!何やっとるだ!!!(怒)」と叫ぶ。
Y君は我に返り、前を向き直り、コチコチの気を付けの姿勢になった。
私は、Y君に代わり、「なーんでもありませーん!」と大きな声で返事した。
残念なことに、その後Y君とは仲直りしたのだが、彼は文系、私は理系に進み、同じクラスになることもなく、疎遠になっていった。
高校時代は、幸いにも、誰とも本気の喧嘩をしたことはないままで終わったが(昔でもいくらか問題になったし、今なら即警察行きだろう)、1年生の入学式で出会った当時剃り込みを入れていたK君とは何度か顔面パンチなしのルールで取っ組み合いをした。
彼は私のことをそれで認めてくれた。私も同じだった。
K君はその風貌にも関わらず1年の最初の校内テストでクラスで上位に入った。
それでさらに私は彼に興味を持ち、親しくなった。
吉本さんは、「本当の友だちていうか、親友っていうか、それができる可能性のある時期が人生にはただ一箇所だけある。それが、青春期に入りかけた時です。こう、打てば響くんだってことがわかること、それが友情だってことになると思う」という。
私は、K君が20代半ばで亡くなったことが残念でならない。
彼とは何でも話せる仲だったし、彼もいろんなことを話してくれた。
吉本さんは、「普通の人間っていうのは、大抵、幼い頃の友だちの存在を忘れたり、薄めたりとか、利害のことだけが先に来るとかっていうことになっていきます。実際、友だち関係をずっと維持できたら文句なしで、それは本当にたいしたもんなんです。普通はゼロなんですよ。俺ともだちたくさんいるよなんていうヤツいるけど、そんなの大部分はウソですよ。月並だけど、人生というのは孤独との闘いなんですから」と、結局、「自分の記憶の中にのみ友だち関係は残るんだ」という。
生きていれば、K君は、そうではない、レアな本当の友だちになれたはずだった。
そこだけが残念でならない。
そういう可能性のあった子ども時代の友人たちの何人かは、K君のように病気や事故で亡くなった。
子ども時代によく遊んでくれた5歳上のA君は私が小3の時に、中1の時に勉強を目覚めさせてくれて大学入学まで目標にしきたH君は大学2年の時に。
彼らのことを思うと、寂しくて残念でならないけれど、「記憶の中に残る友だち関係」はどれも輝いている。
それだけでも幸せということか。
それがあるからこそ、「孤独との闘い」も続けられるというものだ。
友だち関係は、無理するものではないし、永遠でもない。
人生の中では本だけが友だちという期間も少なくない。
本ばかりでなく、映画だったり、趣味だったり、仕事だったりするかも知れない。
それが普通なんだということ。
普通の暮らしの中でまた本当の友だちもできてくる。
少しだけ、吉本さんに反論すると、ある程度年齢がいってしまっても、本当の友だちができないわけではない。
共通項のある人とは驚くほど早く親しくなれることがある。
子ども時代からの友人ほどではないけれど、それもまた楽しい友だち関係だ。
私は、先に逝ってしまった仲間の分まで、人生を楽しもうと思う。
気楽に行こう。
楽しみはまだまだこれからだ。