「第一章 生きる」悪人正機・吉本隆明、糸井重里著
吉本隆明さんは、失業時代があったようだ。
大学に就職相談に行った時、助手から『本当に食えなきゃ、泥棒して食ったっていいんだぜ』と言われたそうだ。
(今の時代なら『残飯漁って食ったっていいんだぜ』が適当だろうと言われる)
切実さが足りない、そういう意味で言われたと理解されたそうだ。
必死さ、迫力がなければ相手を動かすことはできない。
この章では、「手を使うこと」の大切さが語られる。
学者になるのでないならば、頭でっかちではなく実際に生活しながら学ぶこと、生活と遊離しないことが大事。
そんなように受け止められた。
「頭と本と抽象的思考で長くやっていれば学者にはなれる」が、文学・文芸は「手を使わないと」無理なんだそうだ。
文学・文芸は生き様が問われる。
生き様が現れるから。
生活、生存が学問の先にある。
その導線、伏線が『泥棒して食ったっていいんだぜ』ということだろう。
それから、吉本さんは夏目漱石のエピソードを紹介する。
夏目漱石は大秀才だったそうだ。
そういえば、漱石は英語はダントツ、正岡子規は2番だったとか、新聞か何かで読んだ。
吉本さんによれば、漱石は、1年間落第して遊んで暮らしたことがあったという。
スポーツにふけったり、悪ふざけをして他人の勉強の邪魔をしたりしたらしい。
しかし、「あの1年がなかったら、漱石はああはならなかった」「小説は書けなかった」と断ずる。
この漱石落第の位置づけは後付の美しい話だと言えなくもないが、さもありなんと納得はできる。
漱石は、いずれにしても、学校に戻った。
勉強に戻った。
だから、夏目漱石の作品と名前が残った。
戻らなかったら、インテリ崩れの、ただのろくでなしで終わったかも知れない。
吉本さんは、遊んで暮らした1年間を「手を使うこと」になぞらえる。
学ぶことだけでは足りない。
命を燃やし現実を生きることも必要だ。
手というより、身体を使う、の方が私には分かりやすい。
身体で学ぶ大切さということを言われているように感じた。
では、手を使い、身体を使って生活しながら学ぶとして、具体的にはどうしたらいいのだろうか。
それには答えはないという。
「今はこれをすればいいという生き方は存在しない」という。
以前であれば、「一つのことを積み重ねていくと何かまとまりのつく結論的な姿が見えるようになるはずだ」ったが、今はそうではないという。
「変なところであんまり線を引かない方がいいよ」ということらしい。
今は、これといった決め手がない時代だ。
吉本さんは「この世は生きるに値するかみたいなことを考えて」いたらしいが、結局、最後は「てめえが死ぬのなんかわかんねえんだ」から、『死は自分に属さない』ということが言えるだけで、「生きる価値あがどこにあるんだかなんてわかんない」、でも、「『死は自分に属さない』ということは、十分生きるための『抜け道』にはなった」と言われる。
生きている間は、好きにやればいい。
食えないなら生き延びるために残飯を漁ったっていい。
思う存分にやればいい。
ただ、思う存分にやるためには、コツだったり、武器だったりはあったほうが楽ちんだ。
それを使って、何をするかは自由にすればいい。
コツを知り、武器を得て、努力する必要があることについては、いつの時代も変わらない。
気楽に行こう。
気楽にハードにぶっ飛ばして行こう。
頭でっかちになりそうになったら、身体を少し動かして、自分の生活や生存、命をに注意を払い、意識してみよう。
吉本さんの本は余り読んでいなかった。
頭でっかちの人だと思っていたが、少し予想とは違う人なのかも知れない。